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【連載:三島村上氏の軌跡】第一回:来島村上家

愛媛のいいとこ教えます。
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海賊から「大名」へ、政治的荒波を乗り越えた智略の一族

前回の記事でご紹介した通り、村上海賊は「能島」「因島」「来島」の三家による連合体でした。その中で、最も早くから中央政治や地域勢力(守護大名・河野氏)と密接な関係を築き、最終的に「独立した大名」へと脱皮を遂げたのが来島村上氏です。

松山大学名誉教授の山内譲先生の研究資料や、今治市村上海賊ミュージアムの知見に基づき、その変遷を辿ります。

1. 来島家の地政学的特徴:難所「来島海峡」の守護者

来島村上氏の拠点である「来島(くるしま)」は、現在の愛媛県今治市に位置します。 ここは、日本三大急潮の一つに数えられる来島海峡を眼下に望む要衝です。最大10ノット(時速約19km)にも達する激しい潮流は、外部の船にとっては死の罠ですが、ここを熟知する来島村上氏にとっては天然の要塞でした。

彼らはここを通過する船から「帆別銭(通行料)」を徴収するだけでなく、四国の守護大名・河野氏の「一族」に近い待遇を受け、水軍の主力として重用されました。

2. 転換点:毛利・河野連合からの離脱

戦国時代後期、三島村上氏は毛利氏と結んで「織田信長」の軍勢と対立していました(第一次木津川口の戦いなど)。しかし、来島村上家の当主・来島通総(くるしま みちふさ)は、他家とは異なる選択をします。

1582年(天正10年)、通総は織田信長の重臣・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の調略に応じ、毛利・河野陣営から離反しました。 この決断により、来島家は他の二家(能島因島)から激しい攻撃を受け、一時的に本拠地を追われることになります。しかし、この「秀吉への臣従」こそが、後に来島家が「海賊」を脱し「大名」となる決定的な一歩となりました。

3. 豊臣政権下での躍進と「海賊停止令」

秀吉が天下を統一すると、有名な「海賊停止令」が出されます。これにより、海上での武力行使や通行料の徴収は厳禁となりました。 多くの海賊衆が困窮し、大名の家臣へと組み込まれていく中、来島通総は秀吉直属の家臣となり、伊予国風早郡(現在の松山市北条付近)に1万4千石を与えられました。

歴史のポイント: 「村上」という姓を捨て、地名にちなんだ「来島」を名乗ったのは、海賊の象徴である村上の名を隠し、近世大名としてのアイデンティティを確立するためだったとも考えられています。

4. 悲劇の英雄・来島通総とその後

慶長遣欧使節ならぬ、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)においても、来島水軍はその高い航海技術を駆使して戦いました。しかし、1597年の鳴梁海戦において、当主・通総は戦死してしまいます。戦国大名として戦死した唯一の村上当主となりました。

関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、所領を没収される危機に陥りますが、妻の親戚にあたる本多正信らの執り成しにより、豊後国森(現在の大分県玖珠町)に移封され、「森藩」として明治維新まで存続することになります。海を離れた「海賊大名」は、山の地で生き残ったのです。


結びに代えて:来島家の「適応力」

来島家は、三家の中で最も早く「海の掟」から「陸の法(中央集権)」へと適応した一族でした。それは伝統を重んじる他の二家から見れば「裏切り」と映ったかもしれませんが、結果として一族を存続させたその政治的リアリズムは、現代の組織論にも通じるものがあります。

次回の連載では、来島家とは対照的に、最期まで独立独歩の「海賊王」であり続けようとした「能島(のしま)村上家」について詳しく解説します。

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