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瀬戸内の覇者「村上海賊」の真実:日本最大の海賊衆が築いた海上秩序とは

愛媛のいいとこ教えます。
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かつて司馬遼太郎は、その著書『菜の花の沖』などで瀬戸内の海民たちのエネルギーを描きましたが、現代の歴史学において村上海賊は、単なる「略奪者(パイレーツ)」ではなく、独自の法と秩序を持つ「海上領主(シーロード)」であったと定義されています。

元松山大学の山内譲教授(中世瀬戸内海史)をはじめとする専門家たちの研究に基づき、その知られざる実像に迫ります。

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1. 「海賊」という言葉の誤解:彼らは警護者だった

私たちが「海賊」と聞くと、カリブ海の海賊のような無法者を想像しがちです。しかし、中世日本における「海賊」という言葉は、独自の海上武力を持ち、自らのルールで海を支配する「海の武士団」を指していました。

山内教授の研究によれば、村上海賊の主な役割は以下の3点に集約されます。

  • 海上通行の安全保障: 「過所旗(かしょき)」と呼ばれる旗を掲げた船に対し、通行の安全を保障する(一種の警護業)。

  • 水先案内: 潮の流れが複雑な瀬戸内海の難所を安全にナビゲートする。

  • 物流の掌握: 瀬戸内海を往来する物資の流通を管理し、手数料(帆別銭など)を徴収する。

つまり、彼らは瀬戸内海という「巨大な高速道路」の管理運営者であり、警備員でもあったのです。

2. 地政学的な強み:芸予諸島という要塞

村上海賊が拠点を置いたのは、現在の愛媛県と広島県の間に位置する「芸予(げいよ)諸島」です。ここは、瀬戸内海の中でも特に島々が密集し、潮の流れが速く複雑な難所として知られています。

歴史家や考古学の研究により、彼らの城郭(海城)は、単なる防御施設ではなく、「海を監視し、関所として機能させるための装置」であったことが判明しています。潮が引くと現れる「ピット(柱穴)」の跡からは、海上に突き出た複雑な桟橋構造があったことが推測され、まさに海そのものを要塞化していたのです。

3. 武力だけではない「教養」の高さ

村上海賊のもう一つの特徴は、極めて高い文化的素養を持っていたことです。

近年の調査では、彼らの拠点から大量の輸入陶磁器(茶道具など)や、連歌・香道に関する資料が発見されています。戦国時代、彼らは毛利氏や河野氏といった有力大名と対等に渡り合い、時には中央の文化人とも交流していました。

「荒々しい海の男」というイメージの裏には、高度な情報収集能力と、外交を円滑に進めるための教養を兼ね備えたインテリジェンスがあったのです。


4. 三つの「村上」:それぞれの個性と役割

村上海賊は一枚岩の組織ではなく、主に「来島」「能島」「因島」という三つの有力な一族(三島村上氏)が連合体を形成していました。

今後の記事で詳しく解説しますが、各家には以下のような明確な特徴があります。

来島村上氏(くるしまむらかみし)

最も早くから守護大名・河野氏と結びつき、後に「豊臣秀吉」の配下として大名へと昇格していく一族です。政治的立ち回りの巧妙さが光ります。

能島村上氏(のしまむらかみし)

三家の中で最も独立心が強く、「海賊王」と呼ばれた村上武吉を擁した最強の武力集団です。どの大名にも属さず、海の独立独歩を貫こうとしたロマン溢れる一族です。

③ 因島村上氏(いんのしまむらかみし)

中国地方の覇者・毛利氏と密接な関係を築き、毛利水軍の中核として活躍しました。巨大組織の「海軍」としての側面が強く、組織的な戦いを得意としました。


なぜ今、村上海賊なのか

村上海賊の歴史は、中央集権が進む中で「自由な海」を守ろうとした人々の抵抗と適応の歴史でもあります。彼らが築いた海上ネットワークは、後の江戸時代の北前船航路の礎となり、日本の海運文化のルーツとなりました。

次回の記事では、この三家の中でも特に政治的・軍事的な転換点を迎えた「来島村上氏」にスポットを当て、彼らがいかにして戦国の荒波を生き抜いたのかを深掘りします。

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